書評ブログ

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『あん』ドリアン助川

 2016年。38冊目。

([と]1-2)あん (ポプラ文庫)

([と]1-2)あん (ポプラ文庫)

 

9月20日に2016年100冊目を読み終わり、印象に残った2冊の本を簡単な感想つきでFacebookで紹介した。その感想を少し膨らませて、書評を書いていきたい。内容もかなり書いてしまっているので、先に断っておく。ただ、この作品は、登場人物の発する言葉によって物語の素晴らしさを感じたので、内容を知っていても楽しめる作品だと思う。

 

この本を一言で表すなら、『優しく「死」に触れることのできる作品』だと感じた。

 

小さなどら焼き屋で働く主人公の千太郎の前に、どんなに安い給料でも良いから働かせてくれ、と70歳を過ぎた手の不自由な女性・徳江さんがあらわれる。そして、徳江さんの作るあんは大評判になり、店は繁盛していく。しかし、徳江さんに関するある噂が流れ、徳江さんはお店を辞めてしまい、店ももとのように閑散としてしまう。

 

その噂とは、徳江さんがハンセン病患者なのではないのか、ということだ。事実、彼女は過去にハンセン病患者として認定され、隔離されていたのだ。手が不自由なのは、その後遺症である。10代の青春時代に無理やり隔離され、同じハンセン病患者としか交わらない地区で過ごしてきた徳江さんは、「自分が生きる意味とは何なのか」「人が生きる意味とは何なのか」「自然が存在する意味とは何なのか」という問いを考えずにはいられなかった。そんな徳江さんから発せられる言葉は、千太郎や徳江さんと関わる人、そして私たち読者に感動を与えてくれる。

 

233ページから、死を覚悟した徳江さんが千太郎に向けて残した手紙を、千太郎が読む場面がある。この手紙の中には、徳江さんが人生で感じてきた珠玉のメッセージが込められている。その一部を引用したい。 

 なんと美しい月だろうと思いました。もう見蕩れてしまって、自分がやっかいな病気と闘っていることや、囲いのなかから出られないということもその時は忘れていたのです。

 すると、私はたしかに聞いたような気がしたのです。月が私に向かってそっとささやいてくれたように思えたのです。

 お前に、見て欲しかったんだよ。

 だから光っていたんだよ、って。

 その時から、私にはあらゆるものが違って見えるようになりました。私がいなければ、この満月はなかった。木々もなかった。風もなかった。私という視点が失われてしまえば、私が見ているあらゆるものは消えてしまうでしょう。ただそれだけの話です。

 でも、私だけではなく、もし人間がいなかったらどうだったか。人間だけではなく、およそものを感じることができるあらゆる命がこの世にいなかったらどうだったか。

 無限にも等しいこの世はすべて消えてしまうことになります。

 ずいぶん誇大妄想だなと店長さんは思うかもしれません。

 でも、この考え方が私を変えたのです。

 私たちはこの世を観るために、聞くために生まれてきた。この世はただそれだけを望んでいた。だとすれば、教師になれずとも、勤め人になれずとも、この世に生まれてきた意味はある。

 私は早めに病気が完治したため、後遺症をさほど気にせず外出ができました。どら春でも働かせてもらいました。本当に幸運だったと思います。

 でも世の中には、生まれてたった二年ぐらいでその生命を終えてしまう子供もいます。そうするとみんな哀しみのなかで、その子が生まれた意味はなんだったのだろうと考えます。

 今の私にはわかります。それはきっと、その子なりの感じ方で空や風や言葉をとらえるためです。そのが感じた世界は、そこに生まれる。だから、その子にもちゃんと生まれてきた意味があったのです。(pp.235-236) 

 

引用した部分のなかに出てくる子どもの話は、当事者ではないし、私も命に限りがあると実感できているわけではないので、その時になって徳江さんのように素直に受け取ることができるかは分からない。ただ、この手紙の部分を深夜に読んでいて、強く感じたことがあったようだ。その時に感じたことを、思わずメモした紙が挟まっている。それは、次のような言葉だ。

 

徳江さんは、千太郎がいて、ワカナちゃんがいて、森山さんがいて、月と自然があって、義明がいて、関わったたくさんの人がいて、そして、徳江さん自身がいて生きていた

(2016年4月2日(土) 0:27)

 

ワカちゃんはどら焼き屋に遊びに来て、徳江さんとよく話をしていた高校生の女の子。森山さんはハンセン病患者で徳江さんと仲の良い女性。義明さんはハンセン病患者であり、徳江さんの夫となった人だ。

 

この時、私が何を思ってこの文章を書いたのかはあまり覚えていない。ただ、今この文章を見た時に、私が思っていたことを推測すると、つまりこういうことなのだろう。私たちは何かを成し遂げるために生きているのではなく、存在そのものが自分にとっても、自分以外の全てにとっても価値がある、ということだ。もちろん、何か自らが成し遂げたいと思えるものを持っているということは、生きる張り合いになるだろう。生きる希望にもなるだろう。しかし、それがないからといって、その人の命に価値がないということには絶対にならない。私がいることで、月を認識し、はじめて月が存在する。これは人と人との間にも成り立つ関係であり、この関係が網の目のようになっていて、全ての人やものの存在価値を証明しているのだ。このことに人生の中で気づけるかによって、その人の命に対する感性は大きく変わってくるだろう。

 

この本の終盤に徳江さんは亡くなってしまう。静かに、亡くなっていく。しかし、それ以上に多くのことを千太郎やワカナちゃんたちに残して死いく。

誰かが死んでしまうということは悲しい。自分がいつか死ぬんだと気づくことは恐ろしい。しかし、生きているもの全ては、死を避けることはできない。そして、「死」というものに触れることによって、考えることによって、私たち人間は自分の生き方を本当に考えるようになるのではないだろうか。「死」が自分にとって身近ではない子どもや私のような人間が(そうではない人も多くいると思いますが)、優しく、けれど、軽くはない「死」に触れることができる素敵な作品だと思う。多くの人にこの作品を読んでほしい。