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『新編 教えるということ』大村はま

 2016年。106冊目。

新編 教えるということ (ちくま学芸文庫)

新編 教えるということ (ちくま学芸文庫)

 

教師を目指している友達に以前薦められて、ずっと読もうと思っていた本だ。9月末から1週間に1回高校生に授業をするようになり、改めて教えることの難しさを感じている。そこで、この本から教えることのヒントを得たいと思い、手に取った。

 

「教えるということ」「教師の仕事」「教室に魅力を」「若いときにしておいてよかったと思うこと」の4回の講演をまとめた本だ。教師という職業がプロフェッショナルな仕事だということ。成果を出さなければいけないということ。そのためには、教師が学び続けなければならないのだということ感じた。

内容の目次

  • 教師の専門性―教師は何でお金をもらっているのか―
  • 教師の姿勢
  • うまくいったと思うことを書き残しておく
  • 直接伝えるのではなく、気づいたらやっているように
  • 教材作成は日ごろのアンテナと準備が大切
  • 優劣を超える教室へ
  • 作文の具体的な指導

 

教師の専門性―教師は何でお金をもらっているのか―

授業が面白くできたこと、生徒との信頼関係を作れていること、これらはとても大切なことだ。しかし、忘れてはいけないのは、それは教師の自己満足のためではなく、あくまで子どもたちに力をつけさせるための手段であるということだ。全編からそうした大村先生のプロフェッショナルな教師としての姿勢を強く感じた。

ところで「優しくて親切」などというのは、「一生懸命」と同じことで、あたりまえのことです。その反対だったらどうしましょう。「優しくて親切」などは長所でもなんでもない、教師としてあたりまえのことです。そんなことなんでもないとお思いになりませんか。「あたたかな心」もそうです。教師となる人だったら、誇りにもならなければ、長所でもない。あたりまえに出勤したと同じことです。 そうではなくて、教師は専門家ですから、やっぱり生徒に力をつけなければだめです、ほんとうの意味で。こうした世の中に生きぬく力が、優劣に応じてそれぞれつかなければならないと思います。(p.60)

優しいことも親切なことも当たり前。子どもにどのような力をつけさせるかということを考え、それを授業や生徒指導で実践していくのが教員の専門性なのである。そして、それは新卒やベテランに関係なく教師に求められていることだ。

みなさんは、教育の場が、いかにかけがえのないところか、また若いから失敗してもよいということは絶対にないのだと、はっきり認識してほしいと思います。つまり、子どもはふたたびその日を迎えないし、その時間も迎えない。教師たる自分は、最高の自分でなければならないことはいつだって変わりはない。若いということは、なんの申しわけにもならない。失敗したら、もう償いようがないのです。こういうことを考えますと、教師というものは勉強しなければならないものだとつくづく思います。(p.26)

若手、中堅、ベテラン、そのどれも子どもからしたら、同じ立場にいる「先生」なのだ。それぞれの強みを生かして、対等に子どもに力をつけさせなければならない。そして、先生が目指すところを次のように述べている。

親も離れ、先生もいなくなった時、子どもは一人でこの世の中を生きぬいていかなければなりません。その時、力がなかったら、なんとみじめでしょうか。国語の教師としての私の立場で言えば、その時、言葉の力が足りなかったら」、いかにみじめかと思います。平常の、聞いたり、話したり、読んだり、書いたりするのに事欠かない、何の抵抗もなしにそれらの力を活用していけるように指導できていたら、それが私が子どもに捧げた最大の愛情だと思います。(p.109)

大村先生の専門教科は、国語なので言葉の力と述べていた。他にも教科だけでなく、学校生活を通して、子どもたちにどのような力をつけさせたいのか、考えて実行することが教師のやるべきことなのだ。授業や生徒指導、日々の生徒との関わりを通して、先生は子どもたちに何を残すことができるのか。何年後かに振り返った時に、自分が教えた何かが1つでも生きていれば教師冥利に尽きるだろう。大村先生は、先生に教えてもらったことさえも思い出さないけれど、気づかないうちにその子の力になっていたら、一流の教師だともおっしゃっていた。

 

教師の姿勢

教師の姿勢についても大村先生ははっきりと述べている。私は2つの部分に感銘を受けた。1つ目は、「研究」をし続ける姿勢、つまり学び続ける姿勢だ。

私はまた、「研究」をしない教師は「先生」ではないと思います。(略)とにかく、「研究」ということから離れてしまった人というのは、私は、年が二十幾つであったとしても、もう年寄りだと思います。つまり、前進しようという気持ちがないのですがから。それに、研究ということは苦しいことです。ほんの少し喜びがあって、あとは全部苦しみです。(略)なぜ、研究をしない教師は「先生」と思わないかと申しますと、子どもというのは「身の程知らずに伸びたい人」のことだと思うからです。(略)勉強する苦しみとその喜びのただなかに生きているのが子どもたちなのです。研究している教師はその子どもたちと同じ世界にいます。(略)研究をしていて、勉強の苦しみと喜びをひしひしと、日に日に感じていること、そして、伸びたい希望が胸にあふれていることです。私は、これこそ教師の資格だと思います。(pp.27-28)

私が所属団体の活動で、多くの先生方に取材をしてきて感じたことは、素晴らしい実践をなさっている先生は必ず学び続けているということだ。それは年齢に関係なく、20代であれ50代であれ、学び続けている先生の話は面白い。今は教員の多忙化が盛んにさけばれている中で、自分の時間を作って「研究」し続けている先生が、やはりどの時代でも共通の教師の姿勢なのだろう。

2つ目に共感した部分は、「新しいことを生み出す」姿勢だ。教科書があって指導書もある。その中で、目の前の子どもたちのためにどのような教材を作るのか、どのような授業を作るのか、考えていかなければいけない。その時に大事なのが、どうやって自分のオリジナリティを出すかということだろう。

もし人間にアイディアがなかったら、機械の方がずっと上等な存在です。それを考えれば、アイディアの浮かぶことこそが貴重な人間らしさではないでしょうか。どうか、みなさん、人の言っていることをそのまま受け取って、そのとおりにやって、そしてなんとかお茶を濁す、そういう老人めいたことをなさらないで、「新しいことを生み出していこう」となさってください。(p.36)

1970年に書かれたものだが、ロボットが発展した現在をこの時点で予測して考えを述べている。ただ動作をするだけでなく、自ら学び動作を改善する人工知能も発達していきている。そのような中で、人間にできることは大村先生もおっしゃっているように、アイディアを生み出すことだろう。私の好きな言葉に、社会学者の上野千鶴子先生の「情報の真空地帯にオリジナリティは生まれない。」がある。大村はま先生が言っている「新しいこと」も似ているのではないだろう。つまり、アイディアというのは、0から思い浮かぶものではない。自分がいろいろな人からたくさん学んで、いろいろな本を読んで、そして、それを頭の中でつなげて(リンクさせて)自分のオリジナリティを発揮して新しい実践を作っていくということが大切だということなのだ。

 

うまくいったと思うことを書き残しておく

教師の姿勢の続きとして、「若いときにしておいてよかったと思うこと」から引用をする。私が一番共感したのは、「自分のやったことを書き残しておく」ということだ。言葉を言い換えると、「振り返る」ということだろう。

自分のやった仕事のいいところ——これはうまくいったというのを、書き残しておく。これは仕事に対する愛情ではないでしょうか。愛情のようなものです。自分の仕事がとてもかわいくなって、そしてやっぱり腕前の上がることではないかと思います。みなさんも何かうまくいったこと、うまい発言ができたり、うまい指導ができたりすることがあるでしょう、教室の中で、ぱっと。それをすばやく書きとめておいて、自分の宝になさるとよいと思います。それはびっくりするような自分の栄養になるものです。(pp.224-225)

 できなかったところを反省するのももちろん大切だ。そして、自分がうまくいったことをふり返るのは、自分が元気にもなるし、自分の仕事に誇りを持てるようにもなると思う。時間がない中で、少しのタイミングを見つけて振り返りをしていきたい。

直接伝えるのではなく、気づいたらやっているように

今年の6月に教育実習で感じたことはたくさんあるが、その中の1つに「直接伝えるのではなく、気づいたらやっているように話す」ということがある。例えば、要約をする授業で、生徒に「要約してください。」と言うのではなく、「筆者の言いたいことはどこに書かれてあるかな?」「具体例はどこにあるかな?」などと聞いていって、気付いたら要約がなされているように指導するべきだ、と指導教諭の先生から教わった。つまり、こちらがやってもらいたい事を直接言うのではなく、生徒が分かりやすい具体的な指示を積み重ね、それが目標に進んでいくように伝える、ということだ。これは、授業だけでなく、生徒指導でも通ずるところなので、大事にしたい。大村先生も、この点を教師の専門性として強調していた。

教室は、「やってごらん」という場所ではないからです。それを自然にやらせてしまう場所だからです。「もっとよく読んでみなさい」「詳しく読んでごらん」そういう場所ではなくて、ついつい詳しく読んでいた——そういう自覚もないぐらいに——詳しく読む必要があるのでしたら、その場で詳しく読むという経験そのものをさせてしまうところです(略)ですから、学習そのものを、やらせてしまわないとだめだと思います。(p.207)

次に作文指導に関して具体的な例を示しながら、「気づいたらやっている」ことについて述べている。その時に大切なのが、教師の技術だと、はっきりと言い切っている。

 子どもは「文章は自分で書くもんだ」と心得ていますから、教師がかりに来てくれなくても、うらみはしません。それどころか、書けない自分が悪いと思っているでしょう。かわいそうです。「書くこと」を頭に浮かべさせられないような教師だということを、子どもはうらむことを知りません。けれども、教師の方は知っていなければ困ると思います。書かわせられないのは教師の恥なのです。(p.52)

 まず、「一生懸命なさい」とか、「書き慣れなさい」とか、そういう指示だけすることば、子どもに指図する、命令する、そういったようなことは、あまり先生の言うことばとして価値あることばではないのではないか。つまり、命令すればやるものと思ったりすることが、教師としての甘さで、命令が出ても、その通りにやる人やれる人がはたして何人教室の中にいるでしょうか。やらないのはその生徒が悪いのだと言ってしまっては、本職を破棄したことになります。言ってもやらない人にやらせることが、こちらの技術なのですから。(p.112)

私は独話によって指導しているので、形でいえば、古い形の授業なのです。しかし、自分で自分の話をすることによって、どういうことを書きなさい、といったお説教的なことを言わず、それ自身が見本でもあり、耕しでもあり、指導でもあるようにしたわけです。何か着眼点を育てるとか、ものの見方を深くするとか、旅行なら旅行、社会生活でも日常生活でも、見方を深くするということは、そのような教師の身を挺しての実物がなければ、なかなかできないように思います。この例を見つけるためには、だいぶ苦しみました。(pp.133-134)

  それは、簡単なことではない。苦しみながら身につけていく技術なのである。逆に考えると、人柄や性格などの天性のものではなく、努力で身につけられるものなのだから、どのような先生でも可能だと言えるだろう。

 

教材作成は日ごろのアンテナと準備が大切

大村先生は、戦後間もない教科書も筆記用具もない時に、子どもたちの人数分の新聞の切り抜きを用意して教材にしていたということw聞いたことがある。この本でも、同じ教材は2度と使わなかったと書いている。そこまでできる人が全てではないと思うが、教科書を子どもにしっかりと読解させることを前提として、他からオリジナル教材や読解の助けになる副教材を用意する工夫は、私が先生になってからも実践していきたい。

ここからは、大村先生の教材作成の例を引用する。引用する部分は、新聞の投書欄をどのように教科書の教材と結びつけるかという部分だ。新聞の投書の内容は、ある警察官が普段の職務中は走りやすい道路を、休日に走ると走りにくく感じたというものだ。職務中は、周りの車がパトカーを見る警察だと思って速度を緩めたり、道を開けるけれど、そうでなければ周りの車も何も考えず飛ばして走るから、走りにくいのだというのだ。

この「形」という小説は、私が前から知っていたもので、昔、教科書に載っていたこともあります。たいへんおもしろい話だと思っていました。そこへパトカーの運転手の話が出てきたのです。たちまち、頭の中でつながりました。これを何の教材にしようかということになりました。このごろのことばで言いますと、「重ね読み」のように使えるわけです。重ね読みの材料は、なかなかないものです。これはとてもいい題材だと思って、それを使ってみたりしました。「形」という小説がまず読んであって、そういう下地のあるところへ、パトカーの話がたまたま新聞の投書欄を見ていたら目にとびこんでくる、そこへ二つのことがらがつながって、教材というものができてくるわけです。(pp.137-138)

私自身も教育実習で、説明文で学んだ概念を新聞の投書欄を使って実践するという授業を行った。日々どういう授業をしようかと考えるながらアンテナを張ることで、教材となる文章や出来事が見つかるのではないだろうか。そうして意識してあらゆるものを見ると、いつもは流してしまう言葉や景色も教材に変わる感覚は少し分かる。続いても教材準備に対する大村先生の考えが書かれてある部分の引用だ。 

指導者が考えたものを、そのまま与えるわけではありません。必要ならば与えることのできる用意です。この用意が指導者の胸に十分なときに、初めてそのテーマなり形なりを考えている子どもの指導者でありうるのだと思います。考え、苦労している子どもに、ヒントを出すなりして、具体的に助けることができるのだと思います。(p.192)

準備してきた教材がそのまま使えるわけではない。できる限りの準備をしておいて、クラス全体に、もしくは個々で、ゴールに向かって躓いている時に、手助けとなる教材を渡してあげるのだ。だから、準備してきたものは全く使わないかもしれないし、1人だけに必要かもしれない。そうして準備してきたものは、例え使わなかったとしても、今後の授業準備や経験として生かされるのではないだろうか。

私も教育実習で、説明文に書かれてある概念を分かりやすい例で書いていた本の一部などを補助教材として準備しておいた。クラスによっては時間の都合で使えない時もあったが、用意しておいて良かったと思っている。自分の理解が教科書教材の理解が深まったし、必要に応じて子どもたちに提示できたからだ。

 

作文の具体的な指導

次に指導について具体的に書かれた部分を引用する。大村先生は、子どもの作文を添削する時に、ただ「足りない」「よくない」と書くのではなく、先生自身がこうしたら良いなと思う言葉を書いていたようだ。

それで、「こういうことはだめ」と言わずに、「そこのところにこういう気持ちが書かれていればよかったのになあ」思ったときは、「こういう気持ちをこういうふうに書いてごらん」と言わないで、そのことを実際に書いて見せたのです。

子どもとしては、せっかく一生懸命、精いっぱい上手に書いて先生に出したわけです。それをこれは大変もの足りないなんて言われたら、がっかりします。もの足りないとは言わずに、こんなことが書いてないけれど、きっとこんなふうだったろうと思うことを、私がその子になり代わって書き足したのです。それではその子が書いたのではないからだめだ、とお思いになるかもしれませんが、そういうものではありません。それを子どもが読むと、自分が書いたような錯覚をおこすのです。そして、「そうだったなあ、本当にそうだった、こんな気持ちだった」などと思って、そのようにして、いつか少しずつ、心が耕されて成長するのではないでしょうか。指導者によって書かれた一節を味わいながら育てられていくようでした。(pp.222-223)

引用した文のなかで指摘があるように、アドバイスするのではなく、教師が生徒の作文の続きを書くのは、生徒の力になるのか疑問がある。しかし、それは個々の子どもを見て判断すべきだろう。もし全くかけない子が少し自分の気持ちを書けたときに、その次の文章を先生が書いて、それを見て少しずつ学んでいくのはありかもしれないと思った。今後、言葉を書いたり、話したりして相手に伝えるということはとても重要になってくる。話す力は学校での話し合い活動ももちろんだが、日々のコミュニケーションの中で培われていくものでもある。一方で、書く力を養うタイミングはほとんど学校の中でしかないかもしれない。国語の教師を目指す身として、書く力をつける授業は意識していきたい。

 

優劣を超える教室へ

最後に、大村はま先生について書かれた刈谷夏子氏の「大村はま 優劣のかなたに」と関連する部分を引用する。単元学習の項目で書かれていた文章だ。

しかし、そこには、人と比べるというような、さもしい姿になる隙間がありませんでした。そういう、劣等感が出てきたり、優越感がわいたりして、教室を修羅場にしてしまう、成長ということから、——自分を伸ばすということからほど遠い、魅力なんかからはますます遠い、そういう雰囲気になるというのは、一つのゆるみだと思います。

力のある子どもが、力いっぱいやっていない隙間に忍びよるのが、そういうつまらない影です。

できない子どもが、できないことを気にしたりするのも、やはり、隙間だと思います。ゆるみだと思います。

ほんとうに、おもしろいことを、一生懸命やっている、その心の中に、人と比べる隙間はないと思います。(pp.189-190)

「ほんとうに、おもしろいことを、一生懸命やっている」状態がどの子どもたちにもある授業。そこを目指すためには、まず先生が教師の仕事を「ほんとうに、おもしろいことを、一生懸命やっている」必要があるのではないだろうか。おそらく大村先生は国語の授業が大好きで、子どもたちの成長が大きな喜びだったのだろう。だからこそ、子どもたち一人一人に優劣を感じず、それぞれが喜びを見いだして、成長するためにはどのような授業をしたらいいのか考え続けたのだろう。

 

 

大村先生は、戦中から戦後にかけて新人教師時代を過ごしている。最近、本を読んでいたり、大学の授業を受けていて思うのは、戦時中に子どもだった世代の使命感の強さだ。作家や俳優や、大村はま先生を含めた教師はもちろん、そのような人が多いと感じる。その人たちが作り上げてきたものは、不易として今の激動の時代にも学びがあるものが多い。大村はま先生の教師という仕事に対する誇りを強く感じた本だった。教育が大きな転換点を迎えている今だからこそ、教育の根本にあるものを再確認するために多くの先生方や教員志望の学生に読んでほしい。