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『ぼくのメジャースプーン』辻村美月

2016年。107冊目。

ぼくのメジャースプーン (講談社文庫)

ぼくのメジャースプーン (講談社文庫)

 

所属する団体の友人からFacebookを通しておすすめされた本。彼女に送った感想をもとにこの本を読んで感じたことを書いていきたいと思う。自分が今までずっと読みたかった、自分と似ている主人公が出てくる本だった。

あらすじ

小学校4年生の「ぼく」とふみちゃんが通う小学校では、うさぎを飼っている。ふみちゃんはうさぎの世話が大好きで、自分が当番ではない日にも毎日餌をやりに行っている。そんなある日、1人の大学生によって学校のうさぎが惨殺されてしまう。その第一目撃者となったふみちゃんは、あまりにも悲惨なうさぎたちの姿にショックを受け、それ以来ことばもしゃべれず、耳も聞こえず、うつろな状態になってしまう。主人公の「ぼく」は、条件提示能力という力をもっていて、うさぎ惨殺の犯人にその力を使おうとする。条件提示能力とは、「もしも『何か』をしなければ、『ひどいこと』が起きる」と相手に伝ると、相手は必ずどちらかを選択しなければならなくなる能力のことだ。この力を正しく使えるようになるために、「ぼく」は親戚の秋山教授のところに1週間通うことになる。その中で、条件提示能力のことが詳しく明かされ、「ぼく」が葛藤の中、どのような「言葉」で犯人に条件提示をするのか、考えていくというストーリーだ

私は、この物語を読んで大きく5つのことを感じた。次からそれぞれ書いていきたい。

孤立と孤独

1つ目は、最初にも書いたが、主人公のふみちゃんが自分と重なること。

みんなから頼りにされて慕われてるんだけど、その反面、ふみちゃんには特定の仲良しがいない。女の子って、男子以上に友達同士でグループになったり、二人一組の親友ペアみたいなものを作って動くのに、ふみちゃんは一人でいることが多かった。だけど、本人はそれを気にしてる素振りを見せない。(p.20-21)

自分もそれに近い。決して孤立しているわけじゃないし、いろいろな場面でリーダーになる時が多いけど、特定の仲良しはほとんどいたことがない。ただ、あまりそれを気にしていない。1人が特別好きというわけでもないし、誰かと一緒にいたいともあまり思わない。でも、ふみちゃんの一番嬉しい言葉は、「ふみちゃんの友達だっていうことが一番の自慢だよ」と言われることだ。考えてみると私も誰かに自分を必要とされていること、それも特別な誰かとして認められることが一番嬉しいかもしれない。

 

人は他人のためになれるのか 

2つ目は、人はどこまで他人のためになれるのか、どこまでも自分のためにしか生きていくことはできないのか、ということだ。特に私は、一見他人のためにしていることも、それは他人にいいことをしている自分を良く見せたいという思いから、という時が多い気がする。最近は自分は、そういう人間なのだろうと割り切ってるいるが…。それに対する作中での疑問を、主人公である「僕」がこのように投げかけている。

「誰かが死んで、それで悲しくなって泣いても、それは結局、その人がいなくなっちゃった自分のことがかわいそうで泣いてるんだって。人間は自分のためにしか涙が出ないんだって、そう聞きました。本当ですか。」(p.324)

それに対する答えを、秋山先生は次のように答えている。

「馬鹿ですね。責任を感じるから、自分のためにその人間が必要だから、その人が悲しいことが嫌だから、そうやって『自分のため』の気持ちで結びつき、相手に執着する。その気持ちを、人はそれでも愛と呼ぶんです。」(p324)

人間は究極的には「他人のため」になれないのかもしれない。それでも、「自分のため」という気持ちで、他人と結びつき、他人と執着する、そういう生き物なんだっていう言葉に、自分が少し救われた気がした。

 

自分の中の「正しさ」

3つ目は、自分の中に「正しさ」を持つことの大切さだ。正直、秋山先生の話や、条件提示能力ゲームの設定は理解するのに時間がかかった。それでも、そこで秋山先生に難しい言葉を語らせて、力を持つ「僕」にしっかりと考えさせて自分の意見を持たせていたのは、「僕」の中で「正しさ」を持たせるためなのだろう。辻村さんは粘り強い作家だと感じた。最後に「僕」が条件提示ゲームで選んだ言葉は、秋山先生の言葉や考えとは違った。それは、「僕」が自分で「正しい」と思ったことを選び取った証だと思う。「正しさ」とはその人の中の軸と言い換えられるかもしれない。私自身は自分の「正しさ」ではなく、周囲の人の「正しさ」で判断してしまうことが多い。「正しさ」を持っていること、それはその人の人間としての強さの証だと思う。

 

作中でサンタクロースがいるのかいないのか、と話し合う場面がある。「僕」はいると信じていたが、周りの友達すべてに「サンタクロースはいない」と言われてしまう。内心では反論したかった「僕」だが、周りにあわせて「いないよね」と言ってしまう。それに対して、ふみちゃんは「僕」のことを「本当は正しいのに」と慰めてくれる。それに対する「僕」の気持ちが書かれてある部分最後引用する。

もう知ってる。本当はサンタクロースなんていなくて、あの時に間違っていたのはぼく。ふみちゃんはそれを知っていた。知っていたのに、ぼくの方を「正しい」と断言した。先生もふみちゃんも、自分の中に何が正しいのかをきちんと用意して持っている。(p.230)

 

人間の命と動物の命

4つ目は、人間の命と動物の命、どちらが大切かということだ。そして、「生物」なら私たちはどこまでなら、良心の呵責なく殺せるか、ということだ。この物語の中に出てくるこの問いは、子どもたちに命ということについて考えるきっかけを作るのではないだろうか。秋山先生の言葉を引用する。

僕は普段教育学部で、将来学校や幼稚園の先生になる人たちを相手に授業をしているのですが、一度授業で宿題を出したことがあります。もし子どもたちに『どうして蠅やアブラムシを殺してもいいのに、蝶やとんぼを殺しちゃいけないの』と聞かれたらどう答えるかと。」(p.169)

ここに出てくる問いは、突き詰めればどこまでも広げられる。生物の命の軽重に境界はない。人それぞれだ。作中では、うさぎが惨殺されるが、犯人の罪状は「器物破損」だ。社会では、線引きできないことがあふれているが、法律によって共通解として1つの線引きがなされている。だから、「器物破損」になってしまう。この言葉がうさぎを軽く扱っているなどと言うつもりはない。そうではなく、例え法律で共通解があったとしても、自分が命をどう考えるのかということを自分の中で持っている必要があるのだ。

私は、いつか教師になりたいと思っている。ここで使われている問いは、いつか自分が教師になった時に生物関連の説明文などがが出てきたら副教材で使って、子どもたちに命について考えるきっかけを与えたい。

 

物語の空白

5つ目は、作品における空白の重要さだ。この物語を読んでいて、秋山先生の過去など、書かれていない部分が多いと感じた。小説や他の文章の書き方として、短く書いてから膨らませる方法もあると思うが、きっと辻村さんや多くの作家は設定や登場人物などをとにかく書き出して、それを物語をより良いものにするため、伝えたいことを取捨選択するために、切り取って作品を作っているのだろう。文学理論などを学んでいる人だったら周知の事実かもしれないが、この作品を読んで、初めてそれは意図的に仕組まれているものなのだと感じた。作者はきっとこの作品のことをもっと考えていて、登場人物の背景やその後をもっと知っているが、それを作品のために隠しているのだ。それを想像することで、読者は物語をより楽しめるのだと思う。

 

 

最初にも書いたが、『ぼくのメジャースプーン』は友人から薦められて読んだ本だ。きっと薦められなかったら、一生読まなかった本だったと思う。それでも、読んでみてこれだけのことを学び、気づき、感じることができた。これからも薦められた本を読んで自分の世界を広げていきたい。